Tshozoです。 エントロピーが煮詰まってきたので頭の中を吐き出し整理してみます。なんでこうも難解な概念なのか、根源のカルノーの考え方に加え、発明者のクラウジウスとか天才ボルツマンがわかりづらいからだ、ということに尽きるのですが人のせいにしては何も変わらないので書いてみることにします。
とはいえその歴史は山本義隆先生が完璧に近い形で書籍に表しておられますし、ボルツマン以降の統計力学はランダウ・リフシッツの統計物理学で完結しているらしく筆者がここに立ち入るのも烏滸がましい。いわば筆者のように修論をお情けで通してもらったのに「実は自分で決断して博士に進まなかったんだ」と何も知らない衆目に修士課程満期退学とフイチョウするというケースくらい恥ずかしい。
というわけで自分が苦しんだ部分を難解な式を使わずリクツから離れないよう直観的に折り合いをつけた点をものすごく恣意的な解釈に沿って書き下す流れをやってみます。アラカルト的に並べていきますので厳密な意味に対する間違いを多分に含みますが、老人の自由研究という感じでご理解のほどを。
1.カルノーサイクルは順行程と逆行程で対称とはいいがたい
まずエントロピーの根源、熱力学の出発点であるカルノーサイクルから。なんでこれが可逆サイクルで逆行可能なのか、本当に最近まで呑み込めなかったんで(筆者が以前書いたカルノーサイクルに関する記事は内容が間違ってます・反省も含めてそのままにしておきます・・・)この話はそこの整理から開始します。
カルノーサイクルは天才サジ・カルノーJr.が熱動機関が如何にして最大効率を発揮し得るか、そしてそれが作動物質によるのか、原理的制約はあるのかという工学上・物理学上の重要な疑問を真正面から解決した唯一無二の論文内で示される、理想的な可逆熱機関です。準静的プロセスを大前提とし「熱源からの熱、または外部仕事を損失なく外部仕事または熱に変えられる」等温過程と「系内部にあるエネルギーを損失無く特定温度に至るまで外部仕事に変えられる、または外部仕事を全て内部のエネルギーに変えられる」断熱過程のみから構成されます。カルノーは同時に普遍的概念・仮定を多数創成し、特に”温度差があるところではどこでも仕事の発生が可能“、つまり仕事の発生には高温だけでなく低温も必要という極めて重要な仮定(発見)を設定したことは特筆すべき点。一方彼の業績を継承したクラペイロン、ケルビン、クラウジウスらは工業的実利・社会要請を背景にしていたのですが、特にチューリヒ時代のクラウジウスから薫陶を受けたリンデは低温技術を応用し今でも続く大企業を創った例はそうした状況を如実に示しています(なおカルノーの論文は当時全く注目されませんで、クラペイロンがいなかったらおそらく永久に忘れ去られていました)。
んでカルノーサイクルに戻ると、なんかおかしいと思いません? たとえば25℃(298K)と153℃(426K)との間で動く熱機関で、初期状態からスタートして100の熱を高熱から使う場合、カルノーの式1-TL/THの式で熱効率を計算すると(1-(25+273)/(153+273))×100≒30%と、半分にも満たない”仕事”しか生み出せない。残りの70はある意味ムダに消費するのに、ここから一体どう元に戻せと?
このわずか30でどう逆行できるのか、がこの齢になるまで理解できなかったのですが、実はめっちゃ簡単。つまり逆工程の最初がTH→TLによる自発的断熱膨張と、低温熱だまりから熱を”供給される”ことで進む自発的等温膨張から成るためで、これにより仕事を上限(30+(70+ω))まで戻してくれるため。ここで「低温熱源でも熱を供給して仕事を発生し得る」という、つまり高温熱源でも低温熱源でも仕事のために使う熱量に質・差は無いという当たり前のことを理解出来ていなかった。この点ゾンマーフェルトの”高温の熱(源)の方がエネルギー的に価値がある”という言及に捕らわれ低温側の等温過程で同等の仕事は出来ないんでは、という先入観に捉われていたわけです。
で、逆行程は、まず断熱膨張+低温側での等温膨張で進み、順行程でされた仕事と合わせ錘を100+ωに巻き上げる(灰色)。そしてこの保存された物理エネルギーを全部使って紫色の所の断熱圧縮(温度を上げる)+等温圧縮(熱を高温熱だまりに追い出す)を行いめでたく錘も熱も初期状態に逆戻り、というわけです。
なお順行程で初期状態が低温側の場合はそのままでは一切進まず、最初にエネルギーを”借金”しなければなりません。つまり初期は錘のmが一番下の位置にあるので、下へ床をぶち破って-(70+ω)だけ行くのが必要になる。そのサイクルの結果は同じなのですが、これが本質的に可逆サイクルかと言うと違和感があります。つまりエンジンをかけるのに最初にセルモーターの回転が要るように、最初に重りmが70+ωだけ落ちる余地、かっこよく言うと”神の一撃”が要るためです。つまり初期条件が安定な場合は、どこかに適正量のエネルギーが保存されていなければならないという点で制限付の可逆サイクルである、とも考えられます。
以上まとめると下図ですがこの野郎、構成が可逆とはいいがたい。この非対称的な印象と理解不足だったというのがこれまでの問題でした。ただこの区分けを明示していない説明サイト等が多数あり、数式的には気にしなくてもいいですが個人的には結構重要な区別なのではないかと思います。筆者もこの整理をした後にギブスが述べていた下記のことば(山本義隆先生「熱学思想の私的展開 3巻」より引用 /// Jは熱の仕事等量で、ここまでの記載では省略しています)、
“…温度T+でのq+量の熱は温度Tーのq+(Tー/T+)量の熱とJq+(1-Tー/T+)量の仕事を合わせたものと等価(equivalent)なのである。私は、等価(equivalency)という言葉を厳密に相互的互換性を表すものとして用いているのであり、一方向のみの変換性しかないのに熱と仕事が等価であるというような曖昧で誤解を招く意味で用いているのではない”(下線部筆者)
という言葉の意味を初めて自分のものにすることが出来たもんですから。
全体のまとめ 灰色部分が自発的に進むところ、紫色部分が強制的に進めないといけないところ
今見てみてもホンマに可逆なのかと問い詰めたくなる
以上をまとめたおなじみのカルノーサイクルP-V図
今となってはそりゃ当たり前、なんですが最近までいくら眺めても腹に落ちなかった
2.エントロピーとは物質の比熱を代表する状態関数である(まちがい)
(※この項目、式や図は工学院大学 2017年度 物理学講義資料から引用いたしました リンク)
クラウジウスはカルノーの考えを継承し1865年にエントロピー概念・名称及び熱力学第二法則の確立とを示した名論文を発表しますが、手前の1854年(と1862年)にその足場になる論文を発表していました。特に1854年論文で歴史上初めて”補償(Kompensation)”と”等価(Aequivalentzwerth)”という概念を作ったのですが…これが本当にわからん。「可逆サイクルではどういう関数が厳密に打ち消しあわなければならないか」という問題意識に対し、そもそもエネルギー量の出入りの解釈以上何が要るんや、と思うたのが筆者の無理解の根幹です。もちろんエネルギー云々だけでは化学熱力学への発展が見込めない。その意味で1854年論文は必要なステップだったと思いますが独特にすぎる。かと言って1865年論文で示される全微分可能な熱機関内の状態量という関数概念を一足飛びに定義されても頭がおいつかない。ということで以下は1854年論文は無視して、約20年前に麻布十番近くの他人様の家で、デザートのマンゴーを貪り食ってた時に思いついたことに基づいて書きます。
一般に物体に熱Qを与えた場合の温度Tとの関係を考えると物体の比熱をCとしてQ=CTですから、変化量はΔQ=CΔT+ΔCT。つまりCΔT、温度変化に使われるぶんと、ΔCTという項の総和として変換される。いっぽう狭い意味でのエントロピー変化は細かいことを無視するとΔQ/T。等温変化の時はΔT=0ですからこれを並べて、エントロピー変化はこのΔCTのうちの(単位はともかく)ΔC分、気体の比熱の変化(の積分値)、比熱の変化とは物質そのものの変化、つまり物質の系の変化じゃないか、単位も合ってる!と思ったのです(注:比熱Cは一般に対象物体の温度を1℃上げるのに必要な熱量と定義されてるので、この時点でそうとう間違ってます・またCは実際には温度だけの関数ではないので一意にΔCTと表せない点からも間違ってます/以下はこの間違った認識に基づき現象を平易に解釈しようとした試みです)。消費された熱が仕事に可逆変換されようが非可逆変換されようが、物質の系の変化は発生し、その系の状態量の変化≒比熱の変化がエントロピーではないか、と言った方がいいかも。ただ以下、比熱変化と書くと誤解を生むので言葉を系変化に統一します。
たとえば可逆カルノーサイクルでΔQH/TH, ΔQL/TLの積分値を計算すると、可逆な断熱過程で成立するポアソンの式を使えばバチクソに整合する(下図)。サイクルを逆に回した場合にも、厳密にΔQ/Tが等温過程で合致しなければサイクルは閉じなくなるので合致する必要がある、つまり下のオレンジ枠の式は確実に成り立つ。たとえば上記の153℃と25℃のケースでも相当にキッチリ一致する。おお、系変化が厳密に打ち消しあうやん、解決したやん(温度が変わる場合のエントロピーについては別途記載)。
ただお気づきの通り現象の極一面しか捉えていない。一番いかんのは、系変化の結果系に熱が蓄えられた、と誤解されうる点。しかし例えば上図A→Bでは系変化と仕事の発生はセットで発生しその場合は系には熱がとどまっているのではなく”消費&重量エネルギーとして蓄積”されたわけで、十分区別は出来ると思うのです。まぁちょっと以下やってみましょう。
まず出てくる疑問としては①比熱変化は全て系変化と考えていいのか、正負があるというのはどういう考え方なのか、②系変化が高温と低温の熱源に即して一致するというのはどういう物理現象なのか。③たまたま一致している値をこんな解釈に充てるのは偶然の悪用である、④だいいち真空への気体の自由拡散という不可逆な過程を系変化という考えで表せるわけがないだろう、等々、比熱という考え方では穴だらけというのがわかります(そもそもカルノーサイクルに基づくエントロピー解釈だけでは④は説明出来ない気もしますが)。
そうは言っても抗弁出来る点はあり、主要な①②に話を絞ります。まず①。多分、分子間力が無いとみなせる単原子気体、つまり第一種理想気体であればおそらく問題がない。何故ならカルノーサイクルの等温過程では系変化(体積変化)以外にエネルギーが行きようがないから、系変化量はエントロピー変化と十分に相関があると言える。また正負についてはどうか。物体が熱を受け取ることが出来るなら、渡すことも出来るはず。系からの熱の出入りを±で示すことが出来る以上、系の変化も熱に換算できる。それをΔCTとみなすとこれが熱になるので、その総量がそのまま変換できる熱量となる。ということで①は全く問題なさそうです。なお非理想気体を前提に数式を作るとエントロピーがゼロになるような工程を見つけられない可能性があり、もしかしたらクラウジウスはそのことに気づいて1865年論文の時点まで理想気体での検証にこだわったのかもしれません。ケルヴィンはそれよりだいぶ前に理想気体での理論構築はあまり意味がない、というスタンスに居たのとは違う経路を歩んだのとは対照的です。
で、問題は②。可逆な断熱変化は系変化が発生しますが、サイクルで考えれば往き帰りで必ず温度変化分・体積変化分は相殺する(断熱変化の詳細な取り扱いは後述)。また熱の出入りが発生する過程での系の変化総量(この場合体積と圧力)が完全にキャンセルすればサイクルが元に戻り効率がもっともよく、更に可逆である、と言えます。ΔCの総量が低温と高温で一致というのはこの要請を満たすのにも必要ですし、一致していれば必ず可逆になる、という観点でも重要なところ。
ΔCのイメージ(正確ではないです!!!) 視覚的に断熱過程での変化をあるように
描いていますがあくまでイメージです 断熱過程は内部エネルギーと分散のエントロピーとが交換されるため
実際にはこの図のように一軸では示しにくいものになります
もしこの一致が負側にずれている(∫ΔCH-∫ΔCL<0)と加えた熱量に対してどこかで別の系の状態変化(伝熱や拡散)に使われてしまった=不可逆過程を含む、と解釈出来ますし、正側にずれた(∫ΔCH-∫ΔCL>0)にずれたら与えた熱が全体の系に何の影響も与えずにどこかに消えてしまったことになり、これは都合が悪い。要は∫ΔCH-∫ΔCL≤0でなければならない、と。
こういうわけで一応カルノーサイクルから出てくるエントロピーの式とは一致します。逆に言えば準静的でロスが無く系の変化がトータルでゼロに戻せるなら、効率が最大でなくても可逆なサイクルは成立し得る。定圧過程と定積過程を組み合わせた準静的な熱サイクルはその良い例でしょう(③④はのちほど、、、)。
また、この考えは可逆過程にしか上の考えは当てはまらないのではないか、という点についてですが、それも説明できます。1.で述べたカルノーサイクルで、順行程の最後に錘の糸が切れて貯めといた30がゼロになったとします。しかしこの場合でもエントロピー変化=系変化はゼロ。よって可逆で永久機関が完成・・・というふうには絶対ならん。この場合、気体の系はそりゃ最初と同じですが、熱だまりから30の熱が失われている。元に戻すには、失われた30を元に戻すため別の動力機関(別の系)のエネルギーで補償される必要がある。ただその別の系がいくら可逆だったとしても最初に失われた30は絶対にもとに戻らない。不可逆なわけです。30はどこに行ったのかというと、落ちた時の音とか衝撃波とか熱とか床の変形とかいろんなもんに化けるわけでこりゃ戻せないのは容易に想像出来るでしょう。そして気体の外で発生した熱拡散などの分のエントロピーは一般的に系の外でエントロピーが発生した、となるのですが、発生したというより系変化と違う形のエントロピーに化けたと考えた方がいいような気がしています(熱拡散・分散・拡散等のエントロピーのことを指しています・後述)。
なお系変化と異なるエントロピー変化とは何かというと、カルノーサイクルから除外された全ての変化です。つまり熱伝導、熱拡散、物質変形、平均自由行程変化、断熱変化による気圧発生(音などに化けた分)・・・など、これらは基本的に外部仕事を生み出せませんし元にはまず戻せない。ただΔQ/Tでは表されない部分もあるため、ちょっと機会を変えて別の項で採り上げましょう。
ちなみに本当に実体比熱CはΔCと関わっていくらか変わっているのか。多分変わってません。CとΔCには何等かの相関があるはずですが、今回の理想気体ではあくまで系の変化に消費(verbruch)される部分であり、本来の意味での比熱変化には影響が少ないと思われます。とはいえT,V,Pの変化が起きている以上何かしら変わっているはずですが、固体と違って気体の比熱Cは理論式がかなりめんどくさく、ちゃんとこの記事の中身に沿った形で表現できるのかの理解が追っついていないためでございます。一番大事なところにこたえられていない点はもう少しお時間いただきたく、何卒ご容赦ください。
ただ、エントロピーが比熱変化→系変化を代表する量であるというここまでの観点はそんなにズレた解釈でもなく、熱力学第三法則を設定したヴァルター・ネルンストももともとは極低温での固体の比熱がどのように理論的に考えられるのか、という問いからエントロピー原点の仮設に至ったわけです。詳細は割愛しますが極低温付近でのエントロピーは増加する以外に無いという大胆な仮説に基づきS(0)=0とおき、
・・・のようにあらわされるとしました。この仮定により材料のエントロピーを測定したり試算できるようになった点でものすごく大事な出発点になったわけで。そしていっぽう固体の比熱は、
とあらわされます。こりゃちゃんと比熱=エントロピーじゃないですか!と言えるわけで(北海道大学のこちらの資料に式の導出や近辺式が記載されています)。もちろん極低温では気体ではなく固体相なのでこのように表されるのですが、温度が上がると気体の自由度が上がって必ずしも本体の温度に直結しない項が顕在化してきてクラウジウスが見込んだような式になってくる。その温度に直結しない部分について、今回のような考え方で解釈してみてはどうか、と思った次第です。
以上の解釈に沿ってみると、エントロピーはその系(今回の場合は気体)の”比熱(の理論値)”を代表する値であって、状態(T、V、P)が決まると一意に決まる。そして熱機関でのエントロピーの変化(X→Y)は系の”比熱”変化総量(CX→Cy)を示し、その差ΔC=CyーCxが理論値と同等ということは準静的で可逆な過程であることを示す。しかしある場合に(X→Y)での変化ΔC’=(CyーCx)’が不可逆過程を含む場合は理論値よりも必ず大きく、ΔC’>ΔCとなる。これが”比熱変化の理論値からの漏れ、つまり”不可逆過程が起こっている”、と解釈出来そうです。これが結局∫ΔQH/TH≤ΔQL/TLということにも繋がるわけで、系の不可逆ということは比熱変化=系の状態変化が非可逆なものを含むかどうか、というのがカルノーサイクルから考えられるエントロピーとしての一つの解釈である気がしております。実体の無いものより、比熱というものの方が想像しやすいというオマケが付くので最近はよくこの例えを解釈に使ったりしておるんですわ。正しいかどうかはともかく、という但し書きがつきますが!
おわりに(第一部)
そういえばもともとエントロピーをわかりにくくしたものの原因として、「エントロピーは無秩序さ、乱雑さの指標」というどうもしっくりこない表現を使った御方がいるのですがこれを言い出したのは一体だれなのか。実はこれが未だにわからない(以下、その調査の途中経過を記録したものとお考えください)。
昔からこのことに腹が立っていたのでまず天才ボルツマンのエントロピー原論文である1877年論文において乱雑さという言葉にあたるungeorderung, orderung, direkt, その他片っ端からそれに該当するような単語を確認しましたが、そういう表現は一切なく、ボルツマンはただひたすら確率的、統計的という言葉を使用している。つまり物体のエネルギーを統計値で考えた時の総量である、と表現したかったに違いなく、そこには乱雑さとか無秩序とかいう変な表現は一切存在しない。だからきっとボルツマンのせいではない。…蛇足ながらこの論文に、朝永振一郎先生の名著”量子力学”冒頭で書かれていたほとんどの考え方や式が書いてありました。そりゃン十年前の地方高校出の田舎モンが(朝永先生の御本を)いきなり読んでもわかるわきゃねぇですよ。風呂場で泳いでいたやつがいきなり黒潮に突撃するようなもんで、ものには順序があるのだと改めて反省しました。もちろん順序を踏んでも全く理解できませんが…
例のボルツマンのアレの表紙 実はクラウジウスの論文と異なり
イントロはかなり読みやすいが数式が出てくるともうアカン
では日本ではどうか。明治時代には科学的な文献は混乱していたせいか、エントロピーの痕跡が見つからない。というわけで大正から昭和時代まで遡って調べた結果、夏目漱石がエントロピーに言及していたらしい(小山慶太『漱石が見た物理学』中央公論社)のでその源流を探ったところ、夏目漱石と交流のあった寺田寅彦先生の”時の観念とエントロピーならびにプロバビリティ”という短い随筆でエントロピーのことを色々書いていることがわかりました(青空文庫 リンク)。しかし文中に乱雑さという単語は一切見当たらないどころか、不可逆性や時間の経過というかなり正確な形での表現を行っている。ということはこの付近までは変な解釈での単語を当てた奴はいない。それから昭和に至り少し後の竹内時男という物書きをされていた方の科学見聞録的な書物にもそこまでおかしな記述は見当たらない。ということは戦前・戦後直後くらいは少なくともよくわからない概念として留め置いたか、不可逆性の指標という至極健全な解釈に留まっていたとみることができます。
で、戦後以降のエントロピーの和訳につき色々あたりましたが、これが意外とみつからない。ただ、筆者が若いころよく読み直していた岡部恒治さん、おやまだ祥子さんの共著であるマンガ数学小辞典という名著に”エントロピーは乱雑さの指標、部屋がちらかるのはエントロピー増大の法則だ”、という表現があったので戦後からこの時点でそうした言説がぼちぼち出ていたことは確実なようです。これが1988年出版の書籍。ただ数学者や情報学者の観点からは乱雑さという表現は正しい。しかしそれが一気に広がったのはいつなのか。
更に調べた結果、乱雑さとか無秩序とか変な訳語を当てた日本の訳本は多分これ、というのが推定できるのですが確信が持てないうえ風評被害にもなりかねないので正直書けない。しかしその原本はきっとこれだろうというのがわかりました。それは舶来もので、経済学かつ数学者であるジョージェスク・レーゲンという研究者が書いた”The Entropy Law and the Economic Process”、1971年の本。ただこの本は主犯ではなく、実際には約10年後、おそらくこの↑本にインスパイアされた無秩序とか乱雑とかいう言葉を充てたJeremy Rifkinというお方の”Entropy: A New World View“という本が本丸のようです。new world viewじゃねぇよアンタ。
・・・ともかくこの本、結構売れたらしい。内容的にチラ見するとまぁそれはもう当たり前のことを至極もっともらしく言うためにエントロピーという言葉を使いまくっているうえ、だいたいエネルギー散逸というトムソン的な狭い見方に終始していて本義や物質の拡散という観点が何一つない。ということで内容自体も正直あんまり好きになれなかったのはもちろん、これに充てた日本語がおそらくよくない。確実によくない。ボルツマンが只管に考えた物理学的には物体のエネルギーの割り当てを微小かつ極めて数量の多い要素に対してどう考えるか、そのための統計的モデルは、ということに対する科学的記述と配慮がこのリフキン氏の本に無かったわけではないですが、正直全く足らない。そうした内容に乗っかって日本語訳が作られて変な解釈を生んでしまったのではないか、というのが筆者の現認識です。間違っていたら修正します。
ただ、言葉とか表現というものは決して発言者や作成者の意図した方向には使われない。本当に。たとえばお釈迦様が始められた原始仏教も結局北方仏教と南方仏教に分かれてしまったことからもわかるように、どれだけ立派な教えであっても発言者の意図や意思が100%組まれた形には絶対にならない。上記のエントロピーという言葉の濫用もその一種でしょう。だからこそ面白いのもありますが、逆にその源流・原典に戻ることが如何に大事か、いろんな経緯の中の解釈の連続で本意が曲がっていないか、というのは常に確認する必要があると思うです。筆者もあることを長年やっていますが、本当にその真髄を「出来た」人は開祖付近の数人だけというのはよく知られた話。まあ似た話はあちこちで見られますけどその分裂・発展の中で何かが生まれないとも限らないのもまた面白いと考える度量は必要なのかもしれません。
ということで長くなってしまったのでその2に続きます、、、